オタクの定義をめぐって

オタクの定義というのは様々で、一つに決められない。という言い回しについて考えてみる。

 2007年10月10日現在、wikipediaでの「定義」の定義は以下の様になっている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E7%BE%A9)

定義(ていぎ)とは、ある言葉の正確な意味や、集団において構成員が共通認識を抱くために定める概念のことである。
 この記述は少しどうかと思うけど、これにそって考えてみる。「定義」が「共通認識を抱くために定める」ものならば、それが様々に存在する「オタク」は結局のところ「一つに決められない」というのが定義、すなわち共通認識になる。これはこれでかまわない。しかし、「一つに決められない」ということは「定義できない」ということではない。現に「一つに決められない」という共通認識はできあがっている。

 だがそれをわざわざ口に出して、あるいは文章にして、一つに決められないことを共通認識にする=定義することを試みるのは、なぜなのか。自らが「オタク」という言葉の重力圏にいることを自覚している人、「オタク」の問題が他人ごとではない人、には何となく、あるいは明確に理由がわかるだろう。オタクの定義を一つにしようとすることが、不毛だからである。

 東浩紀は『動物化するポストモダン』の冒頭で、自らが「オタク系文化」という記述を使う理由について「この(オタクとは何かという:引用者註)問いを突き詰めても各人のアイデンティティを賭けた不毛なやりとりしかでない」ため「少し大雑把に話を進めよう」というメッセージとして「系という曖昧な表現を」用いると述べている。*1これは「オタク」を自認する読者を意識しての予防線だろう。

 確かに、日本の「オタク系文化」に「ポストモダン文化」の特徴を見いだそうとする、東の論旨からすれば、「感情的なやりとり」にいちいち関わっていたらいつまでも本題に入れないだろうし、東に限らず、ブログなどで「オタク系」のアニメやゲーム作品の感想を書こうとするときに、「オタク」という言葉の定義をいちいち気にしてたらたまったものではないだろう。

 しかし、不毛でありながらも、オタクを「定義」することへの欲望は、オタク文化の「内部」に確実に存在している。岡田斗司夫は『オタク学入門』で「オタクとはオタクの定義について3時間しゃべる奴の別名」*2であると述べた。しゃべるのに3時間かかるような定義は定義としての有効性を持ちえない。オタクの「定義」はそれを定めることによって、共通した認識を得、議論を進めることを目的になされるものではない。「努力と精進、そして自己顕示欲」」*3によってつき動かされるそれは簡単に「アイデンティティを賭けた不毛なやりとり」に陥るだろう。それは定義というよりむしろ「語り」なのである。そして「オタク」について自分の見解を3時間も語るには、相手もまた、「『オタク』について語る」という文化を共有していなければならない。その共有のネットワークで行われる、それ自体が目的である語りが「オタクを定義すること」の別名である。

そして岡田に従うならば、「『オタク』について語る」文化を共有した共同体はイコール「オタク」という共同体でもあるということになる。であるから、「オタクの定義」とは自己についての言及に他ならなくなる。この「自己」が「我」という単数になるのか、「我々」という複数になるのかは語り方によって異なるが、「自己」のレベルが「我」に定められた場合に、「各人のアイデンティティ」が賭けられることになる。

 この場合について根本的なところをいえば、「アイデンティティ」、すなわち、その人の、「その人」性について語る言葉は基本的に普遍性=「他の人にも当てはまる」性を持ち得ない。だからこそ、その人の「その人」性について語ったことになる。にも関わらず、「オタク(=私)の定義」は「定義」という、ある程度の普遍性が前提とされる言葉で語られる。そして当然のことながらその「定義」は話し手以外の「オタク=私」とは食い違うことになり、東のいう「不毛な遣り取り」がおこる。

 「オタク=私」はさすがに極端にせよ、自己=オタク言及性はオタク系文化の表現をかなりの程度決定している。ごくごく最近の作品でいうと『らき☆すた』などがその顕著な例といえるだろう。

 であるならば、「不毛な遣り取り」と紙一重(あるいはまさに同じコインの表と表で)ある、オタク文化の「規範」ともいえる自己言及性と、それを担保とした作品表現について少し突っ込んで考えてもいいのではないか。

 話を展開するにあたって、徒手空拳でちょっと考える。「定義」という行動の根本的(論理学的?)意味は「あるものをそれ以外と区別する」ことにある。Aを定義することは同時に非Aを定義することでもある。この区別の運動は人間の文化全般を駆動しているとも言える。そんな大げさなことをいわずとも、「区別」そして「区別+何か」である「差別」は一九七〇年代以降の日本のサブカルチャーであるオタク文化の発生とその動きに大きく関わってくる。その動きは、単純なレイベリング論やステレオタイプ論ではとらえられない。

*1:東浩紀動物化するポストモダン』13頁、二〇〇一年、講談社現代新書

*2:岡田斗司夫オタク学入門』51頁、二〇〇〇年、新潮OH文庫

*3:岡田斗司夫オタク学入門』51頁、二〇〇〇年、新潮OH文庫

『オタク・イズ・デッド』を読む その2

【「萌え」がわからない】【ミリタリーと萌えオタクの差】
 正直、もうすでに気が重い。話が「萌え」に入ったからだ。ここでの岡田の議論はねじれている。そして、その大きな原因は「萌え」という言葉がもつ両(多?)面性にある。
 「萌え」には大きく二つの要素がある。「感情+対象」と「ジャンル」だ。しかも、はてなキーワードを参照してもらえればわかるように、この二つは分割が不可能なほど入りまじっている。しかし、「感情+対象」から「ジャンル」が派生した。という流れは間違い無いだろう。

(この際だから脱線しちまうと、「萌え」という言葉に慣れ親しんだ人が、たまたま見た夕日が美しいと思っても「夕日萌え〜」とは絶対に思わない。しかし「犬吠埼の夕日萌え」「マイアミビーチの夕日萌え」はありえる。ついでにいうと「夕日萌えな人」もありえる、例に出した「夕日」を「女子高生」に置き換えると全部あり得る。さらについでに言えば、はてなキーワードにすでに萌芽が見られるように「萌え」はすでに歴史を書くことができる言葉になっている。)

内容のまとめ
【「萌え」がわからない】
・岡田の「萌え」理解度
岡田は「萌え」がわからない。という。
それは「全然わかんない」というこではない
少なくとも「『びんちょうタン』はずっとみていた。という程度」にはわかっている。
しかし「評論」するためには「かなり」わかっている必要があり、そのレベルには達してはいない。
・それに対する反応
岡田が「萌えっていうのがわかんないんですよ」と書くと
「岡田が萌えがわからない。あいつは本当のオタクじゃない」と書かれる。
岡田はその論法に「不思議さ」を感じる。

その(萌えを:筆者註)わかってるわかってないがなぜ問題なのか僕もよくわかんない(P16)

【ミリタリーと萌えオタクの差】
「ミリタリー好き(だ)というオタク」はたとえ岡田が「『ティーガー(ドイツ軍のⅥ号戦車・別名タイガー戦車のこと)のこととかよく知らないから』」といっても「『岡田はPanzerkampfwagen Ⅵのこともロクに知らないからオタクじゃない」とは絶対言わない
それは彼らが「同じオタクの住人でもあなたはジャンル違いだから、タイガー戦車のことわからなくてあたりまえ」という常識をもっているから。
岡田によるとオタクという「大陸」には「マンガファンもいれば、アニメファンもいれば(中略)鉄道が好きな人もいる。
そして、「それぞれの人たちが一つのジャンルがわからなかったらといって、他の(オタクの:筆者註)人が『おまえはオタクじゃない』ということはない。
だから、「ミリタリーファンじゃない」「鉄道ファンじゃない」と言われるのはわかるが、(『萌え』というひとに?)「おまえはオタクじゃない」っていわれると「え?いつのまに『萌え』というひとたちがオタクの中心にいることになったの?」という「すごい違和感」があってそれが今も続いている。

内容を考える
前の二節では最近の、若い(という言葉を岡田はこのトークショーでは使っていない。しかし全体として、世代論が重要な役割を果たすので、「若い」という形容をつかう)「オタク」の価値観やその示し方に対する違和感についてだったが、この二節ではさらに「『萌え』というひと」の言動に対する違和感について語っている。

多分続く

(2007.1.22オタク・イズ・デッドって、オタク2.0とか言えちゃうチャンスじゃないか)

『オタク・イズ・デッド』を読む その1

この前の冬コミで、やっと手に入れました。『オタク・イズ・デッド』おもしろ過ぎます。もうすでに沢山の人が沢山の感想を書いていますが、自分は、本文に即して、キーポイントを考えてみようと思います。折角文字としてまとまったので、細かくやっていこうかな。と。
関心のある人には退屈で、関心のない人にはよくわからないものだと思います。

オタク・イズ・デッド』を読む

第一部
【秋葉王選手権】及び【真剣十代しゃべり場
内容のまとめ
岡田はトークショーを最近、彼がオタクに感じた「違和感」を述べるところからはじめる。それは彼がテレビ番組『TVチャンピオン―秋葉王選手権』及び『真剣十代しゃべり場』に出演した際、感じたものである。

1、『TVチャンピオン―秋葉王選手権』
まず「秋葉王選手権」に出演したときの「違和感」を要約すると、
・「秋葉王選手権」で準決勝まで勝ち残ってきた三人だったらオタクとして「かなりすごいやつ」であるはずなのに、

  1. 「ごく普通の、代々木アニメ(ーション学院)に各クラス三人ぐらいいそうな人」だったこと
  2. ある声優のファンにもかかわらず、自らイベントを企画し、その声優を呼ぶということができない。その事を提案すると「固まっ」ってしまったこと
  3. 市販されているものを「お宝」といって持ってきたこと
  4. 岡田が評価した、同人誌を発行している参加者以外は「自分がそれを好きだと思っても、それをなんか、自分の中にため込んでるしかできなくて、外に発散することをしない」こと

・それなのに番組中で「オタクの中のオタク」という扱いをされていたこと
つまり

TVチャンピオンに出演する、というのは、なんだかんだ言って、テレビ番組用に演出されたとはいえ、テレビ局が認める一番濃いやつっていうのがそんなに濃くないぞっていうこと(P15)

である。
 
2、『真剣十代しゃべり場
 同番組で「オタク」がテーマとして取り上げられた際、十八歳の男の子が「俺はオタクだ、美少女アニメが好きなんだ、みんなそんな俺のことを認めてくれ!」という主張をした際、岡田は「『アニメファンで、みんなが偏見で見ているから、そんな目で見るのはやめてくれ』みたいな話」だと思った。
 しかし実際、彼はアニメを見ていることを周囲(他の参加者)には言っておらず、したがってアニメを見ている彼を差別しようがない。にも関わらず、「『きっとみんなに変な目でみられるに決まっているから』」言えず、「『アニメを見ているようなことで人を差別』」する「『世の中が悪い!』」という主張、

「俺はアニメを見ている、で、それは隠している。なんで隠すかっていうと、どうせおまえらがなんか言うからだ、俺が隠さないで済む世の中を作れ!」(P15)

という主張をした。
 岡田はそれに対し「おまえはキャラとしては面白いけど、主張をNHK教育の夜十一時半に言うかぁみたいな」「『あれー?』みたいな思い」を抱いたという。


この二つの出来事をきっかけに岡田は

頭の中で構造的に「オタクってもう終わってるんじゃないの」みたいな危機感(P15)

をもったという。
 この箇所は「危機感が岡田の中で構造化された」あるいは「構造的にオタクが終わっている」どちらにも受け取ることができるが、どちらにせよこれから岡田は「オタクのおわり」について構造的に語ることになる。

内容を考える

 さて、二つの出来事を検討しよう。まず言えるのはこれがともに岡田のテレビ出演に関係してのことである、という点、岡田が違和感を抱いた若いオタクが、ともにオタクとしてテレビに出演しているという点である。それは、テレビ局が「オタク」として提出したいアイコン、町中で作為的に捕まえた「いかにも」な「オタク」としてではなく、オタクがある程度主体的に主張、表現を行える場へのオタク「代表」としての出演である。
 オタクの「代表」であるからには、マスコミに作られたのではない、主体的なオタク(「語ることのできる」オタクでもある)のあるべき姿を体現した者でなくてはならない。にも関わらず、彼らは岡田の考えるオタクのあるべき姿とはほど遠かった。
 では、岡田の考える、オタクのあるべき姿とは何なのか?この点に関しては著書『オタク学入門』(1996、太田出版→1998、新潮OH文庫)から岡田の考えは一貫している。がまず、二つの出来事に対する岡田の違和感から引き出してみる。
 「秋葉王選手権」で彼が違和感を感じた点を元にすると、

  1. アニメ系の専門学校である「代アニ」にも居そうにない「普通でない」人物
  2. ある声優のファンであれば、自らイベントを企画し、その声優を呼んでくることくらい普通にやってのける人物
  3. お金では購入することのできない物を「お宝」としている人物
  4. 自分が何かを好きだと思ったら、その事や、その魅力を表現できる人物

 四つあげたが、すべては4,に結集される。2,は4,の手段の一つ、3,は2,のようなことができれば自然と手に入る(声優とのツーショット写真+サイン+自分専用目覚ましメッセージ等)2,のようなことをするには度を超えた熱意が必要であり、当然コミュニティーの中心的存在になる。その数が少ないので1,のような人物になる。
 基本的に自分が何かを好きだと思ったら、その事や、その魅力を表現できる人物がオタクであり、その熱意や表現方法が度を超えれば超えるほどすばらしいオタクである。
 オタク「代表」としてテレビにでるなら、自分をうならせるくらいの「愛」の表現をして他の出演者や視聴者を納得させてほしいのに、表現が足りないどころか、それをしようとすらしない。「しゃべり場」にいたってはしようとしない以前に、隠している。
(「しゃべり場」についてはもっといろいろな問題が含まれている気がする。見逃しちゃったんだよなー)
 これを「いらだち」に類する言葉ではなく(岡田氏は「いらだち」なんて言わないだろうけど)「違和感」と表現したのは彼らに「愛の表現」が足りないからではなく、そもそも「愛の表現」という意識が彼らに存在しない。彼らは自分達とは違うルールに従っている。あるいはルールが無いと岡田が感じたことによるのだろう。
 だから最近のオタクは「けしからん(P10)」ではなく「わからない(P14)」と言わなければならない。
 そのような「わからない」人間達がテレビを通じて「オタク」の代表として提示されている。しかもそれにテレビ局の作為が含まれている割合は低い。自分にはわからない、自分の属する共同体と違ったルールを持った「オタク」達がオタクの代表になってしまった。
 それが、岡田のいうオタクの死(の兆候)である。

多分続く

コードギアスの「日本人」

http://www.geass.jp/
なんか、「ブリタニア人」の方が、アニメで描かれたきた「日本人」の顔立ちをしているのが面白い。

作中で日本人として描かれている人々は黒髪、黒目であるが故に、明らかにサブキャラ的デザイン(色使い、シルエットが地味)となる。つまり、メインキャラの視点からみるのなら、彼らは他者ということになる。

もちろん、メインキャラに「ブリタニア人」が多いのだから、彼らのほうがよりメインキャラ的デザイン(鮮やかな色づかい、特徴的なシルエット)になるのは当然だ。実際多くのアニメでは、登場人物はみな(おそらく)日本人であるか、国籍不明であるので、瞳、髪の色、骨格などのキャラクターデザインの差は主役であるか、脇役であるかの差に回収することができる。

しかし、そこに人種という要素が加わる、それが、架空の人種でなく、同じ名の人種が現実に存在するものの場合、そこから見えるものはねじれてくる。

この場合、日本人である私たち、特にアニメを見慣れた人間にとっては、作中に描かれた「日本人」が異国人に見えてしまうというねじれだ。

アニメ的な顔立ちの人々が住み、アニメ的な人型機動兵器を擁する「ブリタニア帝国」は、アメリカ、よりもむしろ「アニメ国」であり、つまり、日本は「アニメ国」に占領されている。

そして、視聴者の多くは、学園の生徒や、帝国軍人、黒の騎士団(のうち、ルルーシュとカレン)といったブリタニア人=アニメ国民に感情移入して、物語を楽しむだろう。(スザクは名誉ブリタニア人であるという設定のおかげで、あんな顔になることができた。とうがった見方をすることもできる。)

しかし、彼らはガイジンなのだ。私たちが慣れ親しみ、特に学園もの等で無前提に日本と同一視していたアニメ国は、実は日本ではない。ということを宣言しただけでも、この作品は追いかける価値があるとおもう。




ちなみに最萌キャラはオレンジです。

ツンデレ

ツンデレ」が一般メディアに浸透するのは早かったなぁ、
3年かからなかったんじゃないか?
4年位でした。
「萌え」は7,8年かかった様な気がするんだが
まあ、意味がはっきりしているのと語呂がいいってのはあるんだろうけど。

「脳内汚染」とか「ゲーム脳」とか

脳内汚染amazonレビューが本書の内容に賛同する意見と反対する意見とで、綺麗に二分されている。
そして、賛同側と反対側の意見が全くかみ合ってない。そもそも議論では無いのだから、かみ合う必要などないのだけど、同じ本について書かれた感想とは思われないほど、両者は違うベクトルを向いている。
反対者の主張は明確だ。主に筆者が前提としている統計(と印象論)による事実認識に異議を唱えるものがほとんどだ。反証資料として、何人かのレビュアが「犯罪白書」を持ち出している。
まとめるなら、本書の科学的証明の正しさに異議をとなえる。という路線だ。
対して、賛同者の主張は自らのゲーム体験や、人生哲学に基を置いたもので、「(ゲームを何となく良くないんじゃないかと思っている)自分の思いを代弁してくれた」というものが多い。
自分の主張は、「脳内汚染」に異議あり、というか、賛同者に異議あり、というものだ。

ゲームの世界でいくら経験値や技のテクニックを上げたり磨いても、しょせん狭いゲームの中だけ偉く、現実世界では役に立たないし時間の無駄です。

ゲームに異常に没頭している人を、実際にを見たことが
ある人はこの本に書いてることは納得すると思います。

本書の内容には全く触れていない。これでは、ゲームが有害であることを証明する手続きはどうでもよく、ゲームが有害であるという結果こそが重要なのだと思っている、と思われても仕方がない。
確かに、ゲームは人を「中毒」にさせる何かがあるのかもしれない。面白いゲームは他のものが手につかないくらい本当にハマる。
だから、自分は、他にやることがあるときは、意識的にゲームがない環境を作り出している。しまい込んだり、人に貸したり、方法はいくらでもある。
「ゲームに夢中になるあまり〜なんやかんや」という個人的な経験。それは本書の科学的正しさと何の関係もない問題だ。
ゲームが有害であると思うなら、やらなければいい。中毒性があるというなら子供にそれを教え、適量にとどめさせるか、全くやらせなければいい。どうしてもやってしまうというなら、売り払って、二度と買わなければいい。
それだけのことだ。それが自制心で、躾というものだろう。そしてそれは科学とは何の関係もない。

本書および、「ゲーム脳」などの「脳に有害」言説の悪質なところは、賛同者に「ゲームは脳に有害→ゲーム愛好者は脳にダメージを受けている→脳に障害があるからまともな思考ができない→そんな思考停止の痴呆(orジャンキーetc)のいうことなんか聞くに値しない」というロジックを植え付けるところにある。
ゲーム有害説に反対しているものはゲームが好きなので、ゲームを沢山プレイし、したがって人間らしい思考をするための脳(前頭葉、らしいがどうでもいい)が破壊されているから、人間ではない

そうして、対話は封じられる。

ゲーム世代、ネット世代からは当然感情的な反発があるだろうな、と予想していたら、ここでの評価は現時点で星二つ半。やはり、という感じだ。一歩下がって本書の指摘をしばし考えてみることも必要だろうに。
物理学と違って、社会的なこうした事象は、常に統計としてはかられる。それは著者も指摘している。すべての人がこうなるわけではない。だが、こうなる可能性は馬鹿にできない。
本を読むとは考えることだ。鵜呑みにしてもいけないが、はなから拒絶しては、それこそ、本書で言う「二文法的思考」そのものだろう。
かつて「燃えよドラゴン」を見た帰り道、実際に人を殺してしまった若者たちがいた。強烈な映像というのは、私も含め多くの者に影響を与える。直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

「感情的」なのはamazonレビューで見る限りむしろ本書の賛同者の様な気がするが、「本を読む〜」以降はおおむね賛同する。
だが、「科学的」に「脳」への影響を「証明」してしまうことは、「ゲーマー=狂気、それ以外=正気」という二分法をいとも簡単に作りあげる。そこに議論が成立する余地はない。

かつて、演劇を見ている最中、感情移入のあまり、敵役を殺してしまった者がいたという。古代ギリシャ時代のことだ。
フィクション体験というものは私も含め多くの者に影響を与え続けている。
直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

そして脳は、多くの謎につつまれている。
直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

余談:鹿島茂氏の話(「医学都市伝説」http://med-legend.com/mt/archives/2006/01/post_757.html参照)は、非常にがっかりした。19世紀後半に出現した新たな現実に対して、あれだけ博識な方が、なぜ20世紀後半に出現した新たな現実に対する、あまりに短絡的な判断に肩入れしてしまったのだろう。

「就活学キモ2」

・就職活動用語としての「自己分析」
http://ameblo.jp/careercoach/theme-10001251063.html

一般的によくあるのは、いきたい会社もしくは業界(やりたい仕事ではない)があって、そこへの希望の理由となるような形で自己分析をしてしまっているというものです。

そこでは、誰に見せるということを考えず、本音ベースでまとめていくことが大事です。
一方、自己PR作りというのは、自分をいかに他人によく見せるかということを考えることであり、エントリーシートや面接対策として必要となる作業です。
この自己分析と自己PR作りを分けてやらないと問題が生じる場合があります。
すなわち、本来、ありのままの自分を把握するべきところ、実像以上に自分を飾って見せたりしてしまうことになってしまう可能性があるのです。

大学新卒の就職活動、「就活空間」の発生を考えるに、コアになっているのは「自己分析」の圧力ではないだろうか。今就職活動真っ最中の学生にとっては、当たり前のことかもしれないが、「自己による自己イメージ」と「企業が求めていると思われる自己イメージ」はずれていることが多い。

(後で更新)