初音ミクと育成シミュレーション

「しんたろサンの日記」より
初音ミクは育成ゲーム?
ゲームではなかったものをゲームとして再定義するという方法論
http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20070921

今までの枠組みにあてはめるなら、このソフトは「新しいDTMソフトの一種」という以上のものではない・・・のだけども、一連のニコニコ動画などでのお祭り騒ぎは今までDTMとは縁もゆかりもなかった人たちを巻き込んで面白いことになっている。「DTMとは縁もゆかりもなかった人たち」とは、たとえば今までゲームばかりやっていたような・・・アイドルマスターとか・・・である。そういう人に、このソフトは、音楽ソフトというよりもむしろ「新種の育成シミュレーションゲーム」と見られているような発言が垣間見える。これは面白い。 

育成シミュレーションゲームとの違いについて

(1)プレイヤーは、ソフトメーカーの思惑にほとんど縛られずに自由に行動できる!
(2)Webというオープンな場が舞台!
(3)今のところニコ動を中心に動いているが、全く別の運営母体であるYoutubeなどをホームベースに活動することもできる。どこを選ぶかはプレイヤーの自由!
(4)購入してない人まで巻き込むことができる!
(5)最小限の出費で遊ぶこともできれば、自分のサイフが許す限り無制限にあらゆる物にお金をかけることもできる。!
(6)ゲームは所詮ゲーム、という閉塞感が無い!

有り難いことに、やはり、同じようなことを考えていた方がいるようで。
こちらを参考に、「初音ミク」と「育成シミュレーションゲーム」とで、何が同じで何が違うか、さらに考えてみることにする。

同じ点
・コンピュータを用いる(いや、笑わないで…)

・プログラム制作者により用意された「同じ」パラメータに対し、行為者が(プログラムの規則に則り)働きかけることにより、変化をもたらす。↓
行為者の働きかけの違いにより、変化の帰結に差異が生じる

・パラメータの束が「キャラクター」という形で表象される。(微妙)
→ニコニコの初音ミク界隈で使われている「調教」という表現に注目
                    ↓
ダビスタ等の競走馬育成シミュレーションが比喩として使われている(SMの「調教」も動物に使われてた言葉だし)
                    ↓
競走馬のパラメータ「血統」「毛」「牡牝」/筋肉のしなやかさ、呼吸器など→「走る能力」
初音ミクのパラメータ「ルックス」/メロディ、ピッチ、ビブラート→「周波数」に還元→「歌う能力」
                    ↓
競走馬で問題にされるのは「走る」能力のみ、初音ミクで問題にされるのは「歌う」能力のみ

しかし、それ(個々のパラメータの集合)には回収されない「あまりの部分」が存在する。

走る馬の身体(想像されたものにせよ)無しに「走る」行為は存在しない
同様に歌うミクの身体無しに「歌う」行為は存在しない
   ↓
「あまりの部分」無しにパラメータは存在しない

「あまりの部分」がキャラクターの「図像や名前(ともに身体といってもいい)」に宿る。
馬なら血統のドラマやこれまでのレースの記憶、走るときのスタイルから「馬格」が、
ミクなら、曲の印象や、「声質」から「人格」が、想定される。

パラメータのみで考えるなら、個々のパラメータの量的差異(数字が違うだけ)でしかないが、
キャラクターという要素に還元されることにより(キャラクターの身体が想定されることにより?)、そのパラメータの差異は質的に有意味なものになる。(キャラクターの「個性」になる)


初音ミク」というキャラクターが無ければ(画がなかったら、名が無かったら)単なる、「周波数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法」を採用したDTMソフトである。
初音ミク」を「育成シミュレーション」ととらえるためには、「キャラクター」が必要。
「歌声シミュレーション」が「キャラクター」を想定することにより「歌手シミュレーション」となる
「声」そのものにそもそも「キャラクター」が宿るんじゃないか?→その通り。仮に初音ミクという名前、画が無くても、誰かが勝手に擬人化するだろう。「声」自体にそもそも人格への指向性があるし(これは人類文化の根幹に関わることだ)、「アニメ声」はオタク空間の中で、直ちにアニメ画的身体に結びつけられる文化的背景があるからだ)

・行為者同士が己の「成果」(パラメータ操作の帰結)を見せ合うことができる
(この「見せ合うことができる」という部分において「見せあう」実践が拠ってたつシステムに大きな差が体感できるんじゃないか?)
↓というわけで

違う点
で、冒頭にあげたid:chintaro3さんの考察を導きに違いを考える。
(1)プレイヤーは、ソフトメーカーの思惑にほとんど縛られずに自由に行動できる!
について、「ソフトメーカーの思惑」を「制作者が用意したパラメータ操作の方法」と解釈して考える。

育成シミュレーションゲームでは、パラメータ操作の方法は限られている。
キャラクターのパラメータを操作するためには、多くの場合ゲーム内でお金に該当するポイントが一定数なければいけないし、そのためには「育成」ではないゲームをこなさなければならない、あるいは「育成結果」がある一定の、ルールにより定められた「水準」に達するなどしなければならない。
こう考えると、多くの育成シミュレーションゲームは、実は「育成」そのものが目的では無いことがわかる。レースなり、バトルなり、コンテストなり、試験なりでキャラクターに良い結果を出させるために、「育成」は行なわれる。これは「ゲーム」としての体裁を保つために必要なものではある。
このような制作者に用意された、「育成」を行なうための制約が、「初音ミク」には存在しない。
だから初音ミクは純然たる「育成シミュレーションゲーム」であると、いえる。


(2)Webというオープンな場が舞台!
これは、1,(1)であげた「パラメータ操作の方法」が多くweb上で公開されているフリーのソフト類や、行為者(職人)達がノウハウを書いた文章によるものである。という意味と2,パラメータ操作の「成果」を他の行為者(職人)に公開する媒体がwebメインである。という意味に解釈できる。

そういった意味で初音ミクは他の行為者(プレイヤー)とのネットワークを前提としているといえる。


(3)今のところニコ動を中心に動いているが、全く別の運営母体であるYoutubeなどをホームベースに活動することもできる。どこを選ぶかはプレイヤーの自由!
(2)に準じる。


(4)購入してない人まで巻き込むことができる!
これはとても大事なんじゃないかと思う。カルチャーとしての初音ミクの可能性はここにある。


(5)最小限の出費で遊ぶこともできれば、自分のサイフが許す限り無制限にあらゆる物にお金をかけることもできる。!


(6)ゲームは所詮ゲーム、という閉塞感が無い!
(4)とも大いに関係するだろう。
パラメータ操作の成果が、行為者の経験として蓄積される。育成シミュレーションゲームでは行為者の代理である操作キャラクター(対象キャラクタの親だったり、オーナーだったり)が対象キャラクタに働きかけを行なう。というシステムになっている。だから育成を行なった経験は行為者が属さない、ゲーム世界に属する「操作キャラクタ」「として」の経験であり、行為者の直接経験ではないと解釈される。
しかし「初音ミク」では、「操作キャラクター」は存在せず、行為者が直接に対象キャラクタである「初音ミク」に干渉する。(パラメータを操作し、「音」という物理現象の担保となる情報を操作する)ここでは、パラメータ操作(育成)を経験するのは行為者である。また、その「育成」技術は複数の(DTMをメインとする)ソフトウェアの操作や広く、人間社会に共有された「音楽」そのものの技術にも通じる。
初音ミクを「育成」する経験は行為者が属さない、一つのゲーム世界ではなく、行為者が属するゲーム世界(いわゆる「現実」)での経験である。

比喩として近いのはネットによる「株取引」をゲームに見立てた場合だろう。ネット取引で稼いだ金がそこに「ある」ように職人が調教したミクもそこに「いる」のだ。