「脳内汚染」とか「ゲーム脳」とか

脳内汚染amazonレビューが本書の内容に賛同する意見と反対する意見とで、綺麗に二分されている。
そして、賛同側と反対側の意見が全くかみ合ってない。そもそも議論では無いのだから、かみ合う必要などないのだけど、同じ本について書かれた感想とは思われないほど、両者は違うベクトルを向いている。
反対者の主張は明確だ。主に筆者が前提としている統計(と印象論)による事実認識に異議を唱えるものがほとんどだ。反証資料として、何人かのレビュアが「犯罪白書」を持ち出している。
まとめるなら、本書の科学的証明の正しさに異議をとなえる。という路線だ。
対して、賛同者の主張は自らのゲーム体験や、人生哲学に基を置いたもので、「(ゲームを何となく良くないんじゃないかと思っている)自分の思いを代弁してくれた」というものが多い。
自分の主張は、「脳内汚染」に異議あり、というか、賛同者に異議あり、というものだ。

ゲームの世界でいくら経験値や技のテクニックを上げたり磨いても、しょせん狭いゲームの中だけ偉く、現実世界では役に立たないし時間の無駄です。

ゲームに異常に没頭している人を、実際にを見たことが
ある人はこの本に書いてることは納得すると思います。

本書の内容には全く触れていない。これでは、ゲームが有害であることを証明する手続きはどうでもよく、ゲームが有害であるという結果こそが重要なのだと思っている、と思われても仕方がない。
確かに、ゲームは人を「中毒」にさせる何かがあるのかもしれない。面白いゲームは他のものが手につかないくらい本当にハマる。
だから、自分は、他にやることがあるときは、意識的にゲームがない環境を作り出している。しまい込んだり、人に貸したり、方法はいくらでもある。
「ゲームに夢中になるあまり〜なんやかんや」という個人的な経験。それは本書の科学的正しさと何の関係もない問題だ。
ゲームが有害であると思うなら、やらなければいい。中毒性があるというなら子供にそれを教え、適量にとどめさせるか、全くやらせなければいい。どうしてもやってしまうというなら、売り払って、二度と買わなければいい。
それだけのことだ。それが自制心で、躾というものだろう。そしてそれは科学とは何の関係もない。

本書および、「ゲーム脳」などの「脳に有害」言説の悪質なところは、賛同者に「ゲームは脳に有害→ゲーム愛好者は脳にダメージを受けている→脳に障害があるからまともな思考ができない→そんな思考停止の痴呆(orジャンキーetc)のいうことなんか聞くに値しない」というロジックを植え付けるところにある。
ゲーム有害説に反対しているものはゲームが好きなので、ゲームを沢山プレイし、したがって人間らしい思考をするための脳(前頭葉、らしいがどうでもいい)が破壊されているから、人間ではない

そうして、対話は封じられる。

ゲーム世代、ネット世代からは当然感情的な反発があるだろうな、と予想していたら、ここでの評価は現時点で星二つ半。やはり、という感じだ。一歩下がって本書の指摘をしばし考えてみることも必要だろうに。
物理学と違って、社会的なこうした事象は、常に統計としてはかられる。それは著者も指摘している。すべての人がこうなるわけではない。だが、こうなる可能性は馬鹿にできない。
本を読むとは考えることだ。鵜呑みにしてもいけないが、はなから拒絶しては、それこそ、本書で言う「二文法的思考」そのものだろう。
かつて「燃えよドラゴン」を見た帰り道、実際に人を殺してしまった若者たちがいた。強烈な映像というのは、私も含め多くの者に影響を与える。直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

「感情的」なのはamazonレビューで見る限りむしろ本書の賛同者の様な気がするが、「本を読む〜」以降はおおむね賛同する。
だが、「科学的」に「脳」への影響を「証明」してしまうことは、「ゲーマー=狂気、それ以外=正気」という二分法をいとも簡単に作りあげる。そこに議論が成立する余地はない。

かつて、演劇を見ている最中、感情移入のあまり、敵役を殺してしまった者がいたという。古代ギリシャ時代のことだ。
フィクション体験というものは私も含め多くの者に影響を与え続けている。
直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

そして脳は、多くの謎につつまれている。
直ぐ結論を出さず、じっくり考えてみる必要があるのではないか。

余談:鹿島茂氏の話(「医学都市伝説」http://med-legend.com/mt/archives/2006/01/post_757.html参照)は、非常にがっかりした。19世紀後半に出現した新たな現実に対して、あれだけ博識な方が、なぜ20世紀後半に出現した新たな現実に対する、あまりに短絡的な判断に肩入れしてしまったのだろう。