「エコ」ブームの可能性(電話で話したこと)

「エコ」ブームは、「(お百姓さんががんばって作ってくれているので)ご飯は残さずたべましょう」とか「道にゴミを捨てちゃいけません」みたいな自明と思っている人にとっては自明だが、ちゃんと機能しているとは思われない、(公共)道徳の話をもう一度するチャンスなのではなかろうか?

グインの話はできないけれど。

作家、栗本薫さんが死去
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090527/bks0905271113000-n1.htm

気がつけば、「栗本薫」の本を一冊も読んだことがなかった。自分にとって、この人は「中島梓」であった。
『コミュニケーション不全症候群』をはじめて読んだのは大学に進学した年。本の序盤で展開されたおタクが「お宅」と呼び合うのは相手に個人対個人の関係を求めているのではなく、彼が持つコレクションや知識と、自分が持つそれの間で関係を結ぶ事を求めている。つまり「私とあなた」の関係を拒否し、脆弱な自我をモノで埋め合わせている。という分析は「オタク(from岡田斗司夫)」の三文字に前向きな自意識を託していた元田舎の高校生であったところの自分にとってはなかなかにショッキングだった。
他者への想像力を決定的に欠いた「コミュニケーション不全症候群」なっていく私たちという現状認識を出発点とし、そこから脱するための答え、『「個人」の存在を感じ、その力を信じる』にたどりつくまでの道程が、力強い、時として情緒あふれる言葉で、まるで物語のようにつづられていた。著者が歩んだ苦難の道程を一息に辿ったあと、ボロ学生寮の6畳一間で、これからどう生きようかしばらく呆然としていた事を思い出す。

いま思えば、この本の主張には、若者に対する不安をいたずらに不安をあおり、かえってコミュニケーションの溝を深めてい側面も大いにあったのだろう。
しかも「おタク」文化の中心的担い手であった著者自ら個人同士のコミュニケーションの記憶が残る最後の世代と位置づけ、後続の世代と線引きをし、彼らを執筆当時はやっていたらしい〜症候群とカテゴライズした。〜症候群という言葉が流行するきっかけは、後天性免疫不全症候群エイズ)であり、そういった未知にして不治の病をイメージさせる名付けも含めて考えるとかなりたちの悪い「俗流若者論」ということもできる。この読まれ方からは著者が「現代社会」すべてに当てはまる。という言い訳をいくらしようと逃れられるものではない。
不全の対義語は十全である。独立した個人と独立した個人、著者の言葉で言う「一戸建ての自我を」持った者同士による十全なコミュニケーションなど、それこそ、私たちの妄想の中にしか存在しない。
独立した個人であろうとする意志は、一戸建てを得ようとすれば、一生をローン返済にあてなければならない事実にも似て、
まさにこの本が書かれた時代に完成した消費原理の格好のターゲットとなる。

しかしなお、個人の力を私たちは信じなくてはいけないのかもしれない。
信じるとは、実在が確実では無い存在を盲目的に確実視することではなく、不確実な存在を信じた自分を引き受けて生きることだ。
まったく…とんだ置きみやげを残していったよ、このおばさんは。

涼宮ハルヒの憂鬱 8話 「笹の葉ラプソディ」

本編というより、新しく作られたEDの感想。
涙腺ゆるんだ。
前作のダンスは、アップロードされた大量の「踊ってみた」ムービーが示すように、
作品世界が、こちら側の世界を浸食するかのような圧倒的パワーがあった。
モニタの向こうのできごとじゃないんだ。こっちでも盛り上がろうぜ、俺たちもSOS団だ、と。
しかし、新ED曲「止マレ!」の歌詞や、実写入り交じった学校風景の映像、
サビの校庭を走るハルヒ達に感じたのは、もはや、過ぎ去った、あるいは、モニタの向こうにしか存在しない
「青春」だった。

どうしようかって悩んだことも
今思えば笑えるほどだったよね
もう忘れたか?

「止マレ!」 作詞:畑 亜貴

このEDによって、現在進行形の祭り=青春であったはずの、前作の再放送分までもが
かつてそこにあった、もはや手の届かない、思い出という意味を帯びる。
忘れたか?そう問うことによって、祭りの記憶が呼び起こされる。
そして、青春はもはや失われた、あるいは最初から無かったという
喪失感が鮮やかに立ち上がってくる。

アニメ版ハルヒは、今を生きる者を束縛する伝説ではなく、感傷的なただの思い出になるのかもしれない。
そうなるために、再び作られるのかもしれない。
だから、是非、単なる佳作の青春アニメとして軟着陸してほしい。
キョンが大人になって、「あの日」の事を思い出す。そんな情景が見えてくる作品になったら最高だとおもう。

子ども=大人の妄想

ITmedia news「漫画・イラストも児童ポルノ規制対象に」約9割──内閣府調査
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0710/25/news140.html
当該の調査(PDF)
http://www8.cao.go.jp/survey/tokubetu/h19/h19-yugai.pdf

おおむね、はてなブックマークのコメント(http://b.hatena.ne.jp/entry/6293181)と同じような意見なんだけど

近年、子どもたちに悪影響を与える恐れのある以下に示すような情報(「有害情報」と言います。)が
多くなっています。

と最初に「よく読んでもらって」から「面接形式」で答えさせるって、どれだけバイアスかけているのか。
それに面接形式で回収率58.9%って低すぎないか?年齢構成は?


調査法以上に気になったのは
「子どもってだれだ?」ということ。

1 わいせつ画像などの性的な情報
2 暴力的な描写や残虐な情報
3 自殺や犯罪を誘発する情報
4 薬物や危険物の使用を誘発する情報 など

っていうのが「子どもたちに悪影響を及ぼすおそれのある」情報らしいけど、
これって(特に3と4は)大人にとっても「悪影響」があるよね?
ここでいう「悪影響」というのは「実際にそういった情報に基づき、行動を起こすこと」
と解釈してみるけど、それだったらネットで仕入れた情報をヒントに自殺してみたり、犯罪してみたりとかはむしろ大人の中に、いくらでもありそうだ。
であるのに、なぜわざわざ「子ども」を持ち出すのか?
おそらく「子どもは大人と違って、善悪の判断がつきづらく、有害情報に影響され、行動を起こしやすい。」
という暗黙の前提があるからだ。調査はこれを利用している

しかし、後半のQ6、とQ7において、「有害情報」が子どもに与える悪影響の内実が全く変わってくる。

これに関して、個人が持つだけであれば他に害を及ぼさないため現行のままで問題はないとの意見が
あります。一方、被写体となる児童の権利を守る観点から、単に持っているだけでも処罰の対象とすべ
きとの意見があります。(Q6の前に対象者に読ませる文章の一部)

Q6 〔回答票21〕児童ポルノを単に持つことも法律で規制することについてどう思いますか。この中
から1つだけお答えください。

これに関して、実在しない子どもを描くのであれば、他に害を及ぼさないため、現行のままで問題な
いとの意見があります。一方、これらコミック等が児童を性の対象とする風潮や児童に対する性的犯罪
を助長するとの意見もあり、実在する子どもの写真やDVDなどと同様に規制の対象とすべきとの意見
があります。(Q7の前に対象者に読ませる文章の一部)

Q7 〔回答票22〕このような漫画(コミック)や絵(イラスト)を規制の対象とすることについて
どう思いますか。この中から1つだけお答えください。

について、Q6ではそういった「有害情報」を作り出す大人から子どもを守ろうとすること
Q7では「有害情報」に影響を受けた大人から子どもを守ろうということ。


前半で、可能性的には大人も影響を受けることがあるのにもかかわらず、わざわざ「影響されやすいもの」として子どもを設定した。しかし、特にQ7においては大人が有害情報から「悪影響を受ける」ということを暗黙の前提としている。
この変わりようは何だろうか?それだったら前半の質問において「子ども」を持ち出すべきではないんじゃないか?
というか、この展開は、ロリエロマンガ読んでる大人は、子ども並に判断力がない。といっているに等しいよな。
自分の意見の道徳的な正しさを保証して欲しいとき「子ども」は便利だ。ものを言わないから。「自ら判断できない」から。
「子ども」を守ること自体に真っ正面から反対する人間はあまりいない。
「子ども」のためといえば自動的に、議論の必要なく、正しいものになる。

人間の定義

すっかりなじみ?の動画を並べてみる

初音ミク"packaged"
http://www.youtube.com/watch?v=M8gIMfyV4Mg

Perfume"パーフェクトスタイル(ライブ)"
http://www.youtube.com/watch?v=GJaggOS22Wg

アイマス×Perfume"パーフェクトスタイル"
http://www.youtube.com/watch?v=H7l4-CXmF08

初音ミク みくみくにしてあげる(千早ソロ)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1110847

ミクの曲(packaged)の作者が中田ヤスタカ氏の音づくりをまねてるんだろうけど、
それは本題ではなく。

80年代以降の「消費社会」の分析、というより「かけ声」として使われてきた、
「オリジナルとコピーの区別がつかない。」というクリシェが、どのような意味なのか、
感覚的にハッキリしてきたような気がする。

もともとのPerfumeの表現自体、「ひょっとすると生身の人間が歌わなくてもいいんじゃないか?」
という疑念を聞き手に与えることを一つのねらいとしている印象がある。
にもかかわらず、三人が生身の身体を持ち、「ライブ」が成立する。
しかし、たとえ彼女たちが「口パク」であってもその「ライブ」感は減じることがない。

身体無き声と声なき身体の不安定な境界をいったり来たりするのが醍醐味なのかと思う。
「過去(〜70年代)に描かれた未来→レトロフューチャー」という様式だけではPerfumeはとらえられない。
「身近なアイドル」と「偶像としてのアイドル」というアイドル文化における緊張関係を加えても足りない。


そしてニコニコ界隈でスタンダードとして定着した、アイドルマスター映像にPerfumeの歌を乗せたMADビデオ。コンサート画面のもあるし、凝ってPV風にしたのもある。

さらに初音ミク。「声」が人間のもので無くなる。かつてとは比較にならないほど安価かつ簡単に「歌声」が作り出される。本当に「中の人などいない!」のだ(藤田 咲さんは「外の人」である。と思う)

歌番組でトークの方が視聴率稼げるようになってずいぶんたつし、メディアコンテンツとして「生身のアイドルのステージ」の価値がどれだけあるか、疑わしい。もう、歌はミクで身体はアイマスでいいんじゃないか。という人は多分それなりに、いる。この状況は技術的な面では、十分想像がついていたけれども、それが実現してしまった今、文化的な面でも、「ただの目新しいもの」として受け入れられるように変化しつつある。

そして、それはかつて「ヴァーチャルアイドル」と呼ばれた、「虚構性」を売りに仕掛けられたものとは違ってきている。
(その意味で、初音ミクを「ヴァーチャルアイドル」と紹介したTBSの番組は、もしも仮に、丁寧に作られたものだったとしても、退屈なものになっていただろう)

人間の定義、変えなきゃだなあ。


ヴォーカロイド「初音ミク
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01.jsp

アイドルマスター
http://www.idolmaster.jp/

Perfume
http://www.amuse.co.jp/perfume/

初音ミク 1st Live 「Packaged」
http://www.youtube.com/watch?v=H1knsjzrigI
GO MY WAY!! 踊る3D初音ミク[FULL版]
http://www.youtube.com/watch?v=-kThtTFimgY

初音ミクと育成シミュレーション

「しんたろサンの日記」より
初音ミクは育成ゲーム?
ゲームではなかったものをゲームとして再定義するという方法論
http://d.hatena.ne.jp/chintaro3/20070921

今までの枠組みにあてはめるなら、このソフトは「新しいDTMソフトの一種」という以上のものではない・・・のだけども、一連のニコニコ動画などでのお祭り騒ぎは今までDTMとは縁もゆかりもなかった人たちを巻き込んで面白いことになっている。「DTMとは縁もゆかりもなかった人たち」とは、たとえば今までゲームばかりやっていたような・・・アイドルマスターとか・・・である。そういう人に、このソフトは、音楽ソフトというよりもむしろ「新種の育成シミュレーションゲーム」と見られているような発言が垣間見える。これは面白い。 

育成シミュレーションゲームとの違いについて

(1)プレイヤーは、ソフトメーカーの思惑にほとんど縛られずに自由に行動できる!
(2)Webというオープンな場が舞台!
(3)今のところニコ動を中心に動いているが、全く別の運営母体であるYoutubeなどをホームベースに活動することもできる。どこを選ぶかはプレイヤーの自由!
(4)購入してない人まで巻き込むことができる!
(5)最小限の出費で遊ぶこともできれば、自分のサイフが許す限り無制限にあらゆる物にお金をかけることもできる。!
(6)ゲームは所詮ゲーム、という閉塞感が無い!

有り難いことに、やはり、同じようなことを考えていた方がいるようで。
こちらを参考に、「初音ミク」と「育成シミュレーションゲーム」とで、何が同じで何が違うか、さらに考えてみることにする。

同じ点
・コンピュータを用いる(いや、笑わないで…)

・プログラム制作者により用意された「同じ」パラメータに対し、行為者が(プログラムの規則に則り)働きかけることにより、変化をもたらす。↓
行為者の働きかけの違いにより、変化の帰結に差異が生じる

・パラメータの束が「キャラクター」という形で表象される。(微妙)
→ニコニコの初音ミク界隈で使われている「調教」という表現に注目
                    ↓
ダビスタ等の競走馬育成シミュレーションが比喩として使われている(SMの「調教」も動物に使われてた言葉だし)
                    ↓
競走馬のパラメータ「血統」「毛」「牡牝」/筋肉のしなやかさ、呼吸器など→「走る能力」
初音ミクのパラメータ「ルックス」/メロディ、ピッチ、ビブラート→「周波数」に還元→「歌う能力」
                    ↓
競走馬で問題にされるのは「走る」能力のみ、初音ミクで問題にされるのは「歌う」能力のみ

しかし、それ(個々のパラメータの集合)には回収されない「あまりの部分」が存在する。

走る馬の身体(想像されたものにせよ)無しに「走る」行為は存在しない
同様に歌うミクの身体無しに「歌う」行為は存在しない
   ↓
「あまりの部分」無しにパラメータは存在しない

「あまりの部分」がキャラクターの「図像や名前(ともに身体といってもいい)」に宿る。
馬なら血統のドラマやこれまでのレースの記憶、走るときのスタイルから「馬格」が、
ミクなら、曲の印象や、「声質」から「人格」が、想定される。

パラメータのみで考えるなら、個々のパラメータの量的差異(数字が違うだけ)でしかないが、
キャラクターという要素に還元されることにより(キャラクターの身体が想定されることにより?)、そのパラメータの差異は質的に有意味なものになる。(キャラクターの「個性」になる)


初音ミク」というキャラクターが無ければ(画がなかったら、名が無かったら)単なる、「周波数ドメイン歌唱アーティキュレーション接続法」を採用したDTMソフトである。
初音ミク」を「育成シミュレーション」ととらえるためには、「キャラクター」が必要。
「歌声シミュレーション」が「キャラクター」を想定することにより「歌手シミュレーション」となる
「声」そのものにそもそも「キャラクター」が宿るんじゃないか?→その通り。仮に初音ミクという名前、画が無くても、誰かが勝手に擬人化するだろう。「声」自体にそもそも人格への指向性があるし(これは人類文化の根幹に関わることだ)、「アニメ声」はオタク空間の中で、直ちにアニメ画的身体に結びつけられる文化的背景があるからだ)

・行為者同士が己の「成果」(パラメータ操作の帰結)を見せ合うことができる
(この「見せ合うことができる」という部分において「見せあう」実践が拠ってたつシステムに大きな差が体感できるんじゃないか?)
↓というわけで

違う点
で、冒頭にあげたid:chintaro3さんの考察を導きに違いを考える。
(1)プレイヤーは、ソフトメーカーの思惑にほとんど縛られずに自由に行動できる!
について、「ソフトメーカーの思惑」を「制作者が用意したパラメータ操作の方法」と解釈して考える。

育成シミュレーションゲームでは、パラメータ操作の方法は限られている。
キャラクターのパラメータを操作するためには、多くの場合ゲーム内でお金に該当するポイントが一定数なければいけないし、そのためには「育成」ではないゲームをこなさなければならない、あるいは「育成結果」がある一定の、ルールにより定められた「水準」に達するなどしなければならない。
こう考えると、多くの育成シミュレーションゲームは、実は「育成」そのものが目的では無いことがわかる。レースなり、バトルなり、コンテストなり、試験なりでキャラクターに良い結果を出させるために、「育成」は行なわれる。これは「ゲーム」としての体裁を保つために必要なものではある。
このような制作者に用意された、「育成」を行なうための制約が、「初音ミク」には存在しない。
だから初音ミクは純然たる「育成シミュレーションゲーム」であると、いえる。


(2)Webというオープンな場が舞台!
これは、1,(1)であげた「パラメータ操作の方法」が多くweb上で公開されているフリーのソフト類や、行為者(職人)達がノウハウを書いた文章によるものである。という意味と2,パラメータ操作の「成果」を他の行為者(職人)に公開する媒体がwebメインである。という意味に解釈できる。

そういった意味で初音ミクは他の行為者(プレイヤー)とのネットワークを前提としているといえる。


(3)今のところニコ動を中心に動いているが、全く別の運営母体であるYoutubeなどをホームベースに活動することもできる。どこを選ぶかはプレイヤーの自由!
(2)に準じる。


(4)購入してない人まで巻き込むことができる!
これはとても大事なんじゃないかと思う。カルチャーとしての初音ミクの可能性はここにある。


(5)最小限の出費で遊ぶこともできれば、自分のサイフが許す限り無制限にあらゆる物にお金をかけることもできる。!


(6)ゲームは所詮ゲーム、という閉塞感が無い!
(4)とも大いに関係するだろう。
パラメータ操作の成果が、行為者の経験として蓄積される。育成シミュレーションゲームでは行為者の代理である操作キャラクター(対象キャラクタの親だったり、オーナーだったり)が対象キャラクタに働きかけを行なう。というシステムになっている。だから育成を行なった経験は行為者が属さない、ゲーム世界に属する「操作キャラクタ」「として」の経験であり、行為者の直接経験ではないと解釈される。
しかし「初音ミク」では、「操作キャラクター」は存在せず、行為者が直接に対象キャラクタである「初音ミク」に干渉する。(パラメータを操作し、「音」という物理現象の担保となる情報を操作する)ここでは、パラメータ操作(育成)を経験するのは行為者である。また、その「育成」技術は複数の(DTMをメインとする)ソフトウェアの操作や広く、人間社会に共有された「音楽」そのものの技術にも通じる。
初音ミクを「育成」する経験は行為者が属さない、一つのゲーム世界ではなく、行為者が属するゲーム世界(いわゆる「現実」)での経験である。

比喩として近いのはネットによる「株取引」をゲームに見立てた場合だろう。ネット取引で稼いだ金がそこに「ある」ように職人が調教したミクもそこに「いる」のだ。

元オタキングに…

イデア著作権なし……それでも「いいめもダイエット」サービス停止
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/0710/16/news008.html

この問題について、秀逸なエントリはこちら
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20071015/p1

「食べたものを記録する」という方法の独創性について疑問をていした後、こう結んでいる。


ただ、岡田さんの抗議の全文が公開されているわけではないから、発表されていないところに何か納得のいく理由があったのかもしれない。その可能性はある。

いくらなんでも、天下の岡田斗司夫ともあろうひとが、こんな初歩的なミスを犯すとは思えない。きっと何か別の事情があるに違いない。あるのだろう。あると思いたい。

なかったらどうしよう。


いや、ホント、「なかったらどうしよう」

どこぞの首つり先生みたいに叫ぶのか…オレは…。

もちろん、いわゆる「オタク第一世代」の書き手や、それに影響を受けて「薄い」オタク叩きをやっているようなネット言論人の文章は、鬱陶しくてしかたない。

メディア体験を元につくりあげた、まがい物である(だからこそ意味がある)ハズの「自分世代の経験」を無自覚に絶対視してしまっているからだ。

それでも、やはり、岡田氏個人の着眼点は面白いし、文章も魅力がある。
今回のダイエット本も、痩せるための方法ではなく、痩せることのメリットについての記述が魅力的だったのに。


だから、だから、たとえ時代の波に足下をすくわれるにしても…

せめて誰かに倒されてから倒れてくれ…

肉と一緒に、売文業の卑しさが放つ「粋」までなくしたのかよぉ…たのむ、たのむよぉ