今週の舞HiME

最終回『shining☆days
ビデオで見終わった。放映開始時の「萌えの皮をかぶった燃えアニメ」というふれこみの腰の座らなさは大嫌いだったのだけど、フタを開けて見ると、キャラの特徴付け、お約束を守るところとはずす所のバランスなど、商品としてのTVアニメ作品をきちんとこなしている良質の作品だった。
定説などわからないが「萌え」に対抗する「燃え」ということばもまた、「萌え」という言葉が生まれた結果として現れた言葉だと自分は考えている。それ以前にロボットなどの「燃え」アニメを表してたのは、「燃える」「熱い」などの形容詞的表現であったからだ。
これが名詞化されることにより、ある演出、あるシチュエーションが作法、形式として目に見える(耳に聞こえる)形で確立した。それが「燃え」であるように思う。
そういう意味で「燃え」と「萌え」はどちらも「ツボをつく」ための形式、作法という点で表裏一体のものである。限られた形式の中でのあり得るパターンを発見していく作業。それが「燃え」「萌え」作品の制作の実際であると思う。だから「萌え」は「極め」ることができる(UNDER17『がんばれ、たまちゃん!』)
話が大分それたけど、そういう意味で、最終回の超ご都合主義的展開は形式をくり返す「もえ」として全く正しい思うと共に、こういうものを好む自分の嗜好が、鏡うつしになっていて興味深い。ただ、やはり、しずるの変貌とその事実の忘却は作品に没入することを妨げるほど、その場しのぎで、記号的過ぎて「萎え」てしまったのは事実だ。
まあ、それを差し引いても面白かった。壊れる作品もいいけど、こういうあざとくて、時間いっぱいはきちんと楽しめる作品とはやはり必要だと思う。
それはそうと最終回で舞ちゃんがやたらと可愛く見えたのは気のせいでしょうか。