『オタク・イズ・デッド』を読む その1

この前の冬コミで、やっと手に入れました。『オタク・イズ・デッド』おもしろ過ぎます。もうすでに沢山の人が沢山の感想を書いていますが、自分は、本文に即して、キーポイントを考えてみようと思います。折角文字としてまとまったので、細かくやっていこうかな。と。
関心のある人には退屈で、関心のない人にはよくわからないものだと思います。

オタク・イズ・デッド』を読む

第一部
【秋葉王選手権】及び【真剣十代しゃべり場
内容のまとめ
岡田はトークショーを最近、彼がオタクに感じた「違和感」を述べるところからはじめる。それは彼がテレビ番組『TVチャンピオン―秋葉王選手権』及び『真剣十代しゃべり場』に出演した際、感じたものである。

1、『TVチャンピオン―秋葉王選手権』
まず「秋葉王選手権」に出演したときの「違和感」を要約すると、
・「秋葉王選手権」で準決勝まで勝ち残ってきた三人だったらオタクとして「かなりすごいやつ」であるはずなのに、

  1. 「ごく普通の、代々木アニメ(ーション学院)に各クラス三人ぐらいいそうな人」だったこと
  2. ある声優のファンにもかかわらず、自らイベントを企画し、その声優を呼ぶということができない。その事を提案すると「固まっ」ってしまったこと
  3. 市販されているものを「お宝」といって持ってきたこと
  4. 岡田が評価した、同人誌を発行している参加者以外は「自分がそれを好きだと思っても、それをなんか、自分の中にため込んでるしかできなくて、外に発散することをしない」こと

・それなのに番組中で「オタクの中のオタク」という扱いをされていたこと
つまり

TVチャンピオンに出演する、というのは、なんだかんだ言って、テレビ番組用に演出されたとはいえ、テレビ局が認める一番濃いやつっていうのがそんなに濃くないぞっていうこと(P15)

である。
 
2、『真剣十代しゃべり場
 同番組で「オタク」がテーマとして取り上げられた際、十八歳の男の子が「俺はオタクだ、美少女アニメが好きなんだ、みんなそんな俺のことを認めてくれ!」という主張をした際、岡田は「『アニメファンで、みんなが偏見で見ているから、そんな目で見るのはやめてくれ』みたいな話」だと思った。
 しかし実際、彼はアニメを見ていることを周囲(他の参加者)には言っておらず、したがってアニメを見ている彼を差別しようがない。にも関わらず、「『きっとみんなに変な目でみられるに決まっているから』」言えず、「『アニメを見ているようなことで人を差別』」する「『世の中が悪い!』」という主張、

「俺はアニメを見ている、で、それは隠している。なんで隠すかっていうと、どうせおまえらがなんか言うからだ、俺が隠さないで済む世の中を作れ!」(P15)

という主張をした。
 岡田はそれに対し「おまえはキャラとしては面白いけど、主張をNHK教育の夜十一時半に言うかぁみたいな」「『あれー?』みたいな思い」を抱いたという。


この二つの出来事をきっかけに岡田は

頭の中で構造的に「オタクってもう終わってるんじゃないの」みたいな危機感(P15)

をもったという。
 この箇所は「危機感が岡田の中で構造化された」あるいは「構造的にオタクが終わっている」どちらにも受け取ることができるが、どちらにせよこれから岡田は「オタクのおわり」について構造的に語ることになる。

内容を考える

 さて、二つの出来事を検討しよう。まず言えるのはこれがともに岡田のテレビ出演に関係してのことである、という点、岡田が違和感を抱いた若いオタクが、ともにオタクとしてテレビに出演しているという点である。それは、テレビ局が「オタク」として提出したいアイコン、町中で作為的に捕まえた「いかにも」な「オタク」としてではなく、オタクがある程度主体的に主張、表現を行える場へのオタク「代表」としての出演である。
 オタクの「代表」であるからには、マスコミに作られたのではない、主体的なオタク(「語ることのできる」オタクでもある)のあるべき姿を体現した者でなくてはならない。にも関わらず、彼らは岡田の考えるオタクのあるべき姿とはほど遠かった。
 では、岡田の考える、オタクのあるべき姿とは何なのか?この点に関しては著書『オタク学入門』(1996、太田出版→1998、新潮OH文庫)から岡田の考えは一貫している。がまず、二つの出来事に対する岡田の違和感から引き出してみる。
 「秋葉王選手権」で彼が違和感を感じた点を元にすると、

  1. アニメ系の専門学校である「代アニ」にも居そうにない「普通でない」人物
  2. ある声優のファンであれば、自らイベントを企画し、その声優を呼んでくることくらい普通にやってのける人物
  3. お金では購入することのできない物を「お宝」としている人物
  4. 自分が何かを好きだと思ったら、その事や、その魅力を表現できる人物

 四つあげたが、すべては4,に結集される。2,は4,の手段の一つ、3,は2,のようなことができれば自然と手に入る(声優とのツーショット写真+サイン+自分専用目覚ましメッセージ等)2,のようなことをするには度を超えた熱意が必要であり、当然コミュニティーの中心的存在になる。その数が少ないので1,のような人物になる。
 基本的に自分が何かを好きだと思ったら、その事や、その魅力を表現できる人物がオタクであり、その熱意や表現方法が度を超えれば超えるほどすばらしいオタクである。
 オタク「代表」としてテレビにでるなら、自分をうならせるくらいの「愛」の表現をして他の出演者や視聴者を納得させてほしいのに、表現が足りないどころか、それをしようとすらしない。「しゃべり場」にいたってはしようとしない以前に、隠している。
(「しゃべり場」についてはもっといろいろな問題が含まれている気がする。見逃しちゃったんだよなー)
 これを「いらだち」に類する言葉ではなく(岡田氏は「いらだち」なんて言わないだろうけど)「違和感」と表現したのは彼らに「愛の表現」が足りないからではなく、そもそも「愛の表現」という意識が彼らに存在しない。彼らは自分達とは違うルールに従っている。あるいはルールが無いと岡田が感じたことによるのだろう。
 だから最近のオタクは「けしからん(P10)」ではなく「わからない(P14)」と言わなければならない。
 そのような「わからない」人間達がテレビを通じて「オタク」の代表として提示されている。しかもそれにテレビ局の作為が含まれている割合は低い。自分にはわからない、自分の属する共同体と違ったルールを持った「オタク」達がオタクの代表になってしまった。
 それが、岡田のいうオタクの死(の兆候)である。

多分続く