就活学生の「気持ちわるさ」を生み出してしまうのは何か?1

このエントリ(http://d.hatena.ne.jp/amanenaru/20060421#p1)の続き。
学校的だ何だっていってるだけじゃおもしろくなくなってきたので、分析めいたことを。
「学生がマニュアル的な就職活動を行ない、それらマニュアルや裏マニュアルを熟知していることを過剰にアピールしてしまう(これが前エントリで書いた「気持ち悪さ」の正体と仮定する)のは学生個人というよりも「就職空間(仮)」の力学によるものである」
と、まずは仮定。

とりあえず、就職空間(仮)に参加しているプレイヤーとしては

  1. 学生
  2. 採用を行なう企業
  3. 学校(就職科)
  4. 就職情報を提供する企業
  5. 中谷彰宏(最近は違うのか?)」(面接マニュアル、SPI対策本等の著者及び出版社)

が考えられる。
このうち4,5、そして履歴書ではない、エントリーシートという書類が就職空間(仮)
を主に形成していると、考える。

今朝はここまで。

メモその1

完全自殺マニュアル有害図書指定について、webフィルタリングとの(非)関連から

参考ページ
http://hp1.cyberstation.ne.jp/straycat/watch/suicidemanual/1999.htm
・論点その1「文脈の問題」1、本書はそもそも、自殺を促すものなのか、思いとどまらせるものなのか、読者には両方のタイプがいる。*1ぼくたちの「完全自殺マニュアル」
2,『完全自殺マニュアル』はその名が示す様に「マニュアル」、つまり手順を示しているに過ぎない。だからこれ自体は、啓蒙書ということはできない。*2
(てーかそもそも啓蒙ってなによ、「人間が自らの未成年状態から抜け出すこと」で、「自分自身の悟性を使用する勇気を持つ」こと?教育業界議論でいったら「教科書」と「マニュアル」の違いに集約される気もするが)
3,手順書、つまり「情報」に良いも悪いもない。コンスタンティヴではなくパフォーマティヴな意味がその善悪を決定する。
3−1ここでは余談だけど、webフィルタリングは技術的な限界でコンスタンティヴな層に対してしか行うことはできない
4,でも、普通「手引き書」ったら「(その方向に)手を引く」つまり、パフォーマティヴには自殺を「推奨する」文脈でとらえられる。(もちろんこれが規制側の根拠である)
4−1おもしろいのは普通この手の規制は「有害図書から子供を守れ」対「言論・表現(パフォーマンス!)の自由」という対立構造なのだけれども、「子供の知る権利」とか「そもそも『有害』じゃない(自殺の実際を書くことによって自殺を思いとどまらせる)」とかの論点も大きなものとなっている。
5、だから「有害」情報が生成される空間、ニュートラル(?)ある作業の手順に関する情報が「有害」に読解される制度を問題にする必要がある。
5−1自分の頭の性能で、言語行為論を使ってこの問いにアピールできるか疑問。とりあえずオースティンは読んでみる。*3

・論点その1−2 青少年保護育成条例「有害」(東京都では「不健全」)図書はこの条例に従って規制される。
参考http://hp1.cyberstation.ne.jp/straycat/watch/data/jyourei/link.htm
「有害」の定義だが、例えば千葉だと

個別指定とは
図書等の内容が著しく性的感情を刺激したり、粗暴性、残虐性等を有するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれのあるものを知事が有害図書等として個別に指定することをいいます。
包括指定とは
知事が個別指定しなくとも、下記に該当するものについては包括的に有害図書等に指定されます。
卑わいな姿態等を被写体とした写真又は描写した絵を掲載したページ(表紙を含む)の数が総ページ数の「5分の1以上」又は「20ページ以上」ある書籍又は雑誌
※ただし、主として好色的でない書籍又は雑誌については、有害とされる部分が20ページ以上ない場合は自動的に有害図書等に指定されることはありません。

卑わいな姿態等を被写体とした写真のほか、卑わいな姿態等を被写体としたカードや散らし等の印刷物
卑わいな姿態等を描写した場面が「連続して3分を超える」又は「合わせて3分を超える」ビデオテープ又はビデオディスク等
※ただし、主として好色的でないビデオテープ、ビデオディスク等については、有害とされる部分が連続して3分を超えなければ有害図書等に指定されることはありません。

こんな感じ。「健全な育成を阻害するおそれのあるもの」ようするに「かもしれない」で指定されちまう。
*4

第7条 優良興行及び優良図書等の推奨

●知事は、青少年の健全な育成に有益な興行や図書等を「優良興行」、「優良図書等」として推奨することができます。

まあ、こういうのにいちいち突っ込みを入れてもきりがない。問題を集約するなら

  1. 「有害」とは何か
  2. その図書等は「有害」なのか

の二点だろうか
前者は各都道府県が明(?)文化しているが、後者、その適用のロジックは闇につつまれている。「卑猥な姿態」が「5分の1以上」とか、意味不明。「有害なものは有害だ。だからこれは有害だ」という論理だ。
図書のコンスタンティヴな層だけが問題にされている。いや、ちがう。あるコンスタンティヴとあるパフォーマティヴの特定の組み合わせだけが採用され、他の可能性が拒否されている。それが「有害」というコンテクストである。
・「卑猥な姿態」も「性教育」というコンテクストでは、別のパフォーマティヴが与えられる。
「卑猥な」というのは「性教育」ではない、「卑猥な」コンテクストにおける、裸
(だからって、医学書はOKなのにエロ本はダメなのか!とか突っ込んでいってもあまりおもしろいことにはならない)とりあえず「性教育」という観点を思い出せた。

・「有害」だからって法で規制していいんだろうか
という問題も大きい。けれどもこれは扱わない。webフィルタリングは法ではなく、親、学校が「自主的に」行うものだから。

・禁止によって何が排除されて、何が守られるのか。
何を隠して何を見せるのか。

性と暴力(をあつかったメディア)
(しかしスルーして子どもに届くのはいくらでもある)
メディアと教育の問題?←当然ある。
そもそもなぜ「見せていいもの」と「だめなもの」というカテゴリが発生するのか
未来が守られる。(「次世代を守る青少年」「子ども」は「未来」につながっている。
青少年「保護」「育成」条例。青少年は「保護」され「育成」されなければならない。
「無垢な子ども」「一人前の子ども」の対立

*1:もっとも自殺してしまった人間の証言はとりようがないが。

*2:鶴見氏や支持者、反対者の言動により、ある意味が与えられたということも考えられるが、規制騒動がなければ、これらの言説は紡がれることはなかった。例えば完全自殺防止マニュアル―心に優しい21世紀冒険読本は岐阜、滋賀で規制された年に出版されている

*3:自分に「コンスタンティヴ」「パフォーマティヴ」の語を教えてくれた東氏のデリダ論は三分の一も理解できなかった。

*4:「包括指定」に関してはさらにおもしろいことが。「有害とされる」って、有害指定する側の文章に出てくる言葉ではないよな。

『グーグルGoogle 既存のビジネスを破壊する』佐々木俊尚

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する  文春新書 (501)
自分としては「アテンション」を扱った第五章が興味深く読めた

要するに金や時間、生産量を持っているのが優位なのではなく、いまや、
「人からどれだけ注目(アテンション)されるか」
が最大の価値基準になっているという意味である。

そして、検索エンジンを中心とした基本構造の上で「アテンション・エコノミー」が展開されることでマスメディアの権威が相対的に低下する。らしい。

googleではなく、はてなの話なんだけど、これを実感したのは前回のエントリに沢山のブックマークが付いて、有名ブログや、ニュースサイトと一緒にはてなトップページの「人気記事」一覧にのってしまった時だ。
ネタがタイムリーだった「だけ」なんだけど、これまで断続的にやってきた1年分よりも多くカウンターが回ってしまった。
そうやって多くの人の目についたおかげで共感のトラックバックや、批判のコメントをもらえたんだと思う。
ちょっと『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』に影響受けすぎかもしれないが、自分の独善的なエントリが一瞬でもパブリックなものになるのは結構面白い。毎日はつらいので時々でいいんだけど。

で、「アテンション」、趣味ではいいかもしれないが、仕事でこれを奪い合う時代というのは、しんどいと思う、一度や二度注目を集めるはできるかもしれない、でも常に注目の上位に立ち続けるのはつらい。でも、上位なければ「存在しない」んだから上位に立つ続けなくてはいけない。
はてなブックマークみたいにブログではなく、エントリ単位で注目度を競い合うようになった場合、アテンション資源みたいなものの蓄積は全くできない、キーワード検索でも一緒。常にはじめの一歩からの戦いになる。メモリーカード無しでFFシリーズをやりつづけるみたいな絶望感におそわれるかもしれない。
頼みの綱「ロングテール」も尻尾の節目節目をタテ軸で考えるなら「パレートの法則」が発生してしまうのではないか。と想像する。比較的近い高さでのヨコ軸でもそう。

他の章も興味深い記事があるので、読んでみてください。

『カーニヴァル化する社会』鈴木謙介

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
いまさら読んだ。ごらんの通り、(おそらく初刷の)帯には『ネット世代の論客が解き明かす「僕たちの日常」』と書かれているが、自分が入手した四刷目では『気鋭の社会学者「ニート」問題の本質をシャープに読み解く!!』となっていた。
もちろん初刷で興味のある若者層には行き渡っただろうから、オジサン、オバサン層にアピールしていく戦略なのだろう。
自分としては北田暁大氏やこの鈴木氏の本はもっと中年層に読まれて欲しい。と思っているので、こういった戦略は大歓迎だ。
まあ、そんな戦略がとれる本だから、いろいろな読み方ができるよ。ってことで。

就活学生の「気持ちわるさ」について

先日、インターンシップの説明会に参加した。
プログラムの一環として、インターン体験者に話をしてもらう。というのがあり、行政、NPO、海外NGOと来て、最後が一般企業の体験者という順番だったのだが、一般企業の参加学生二人に嫌悪感を感じたという話。
「文化に基づく生理的嫌悪感」というのが多分正しいかもしれない。その学生個人ではなく、学生の背景にある文化的なものへの嫌悪。
・彼等の過剰な明るさ
・パワーポイントによる「プレゼン」
・ホントのところを語ります。的な発言、つまり情報は持ってますよという発言及び断定的な口調
「明るさ」はまあ、緊張してたんだろうし、パワポは自分が嫌いなだけなので、三つ目の「しゃべり」を問題にする。
結論からいってしまうと、学校別受験対策を語ってる予備校生そっくりで、嫌悪の原因はこいつらは本当に学校的価値体系に従順で、就職しても社会人「一年生」なんだなと思ったところにある。
学校別受験対策云々ってのは「京大の英作ってさ、東大とかが自由英作文なのに、昔ながらの和文英訳重視でさあ、(中略)まあ、構文覚えときゃ問題ないよ」という感じのあれだ。
英語という言葉にも、英語学という学問にも、試験で自分が試されるという緊張感もない、ただの情報以下のローカル雑学を持っていることを誇らしげに語る気持ち悪さ。*1


そういう勉強が大学の学問といかにかけ離れているかっていうのは大学一年生の前期でわかりそうなものだけど、それをわからず、同じノリで就職活動してしまってる。おまえら四年で何を勉強した?

(http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060414#p1)とかそれに対する反論(http://diary.yuco.net/20060415.html#p01)で語られているように、是非は別として、特にホワイトカラーとして企業が必要としているのは高偏差値の学生だ。
もともと近代的な学校というものが、機械化によって複雑化する労働と、生産規模の拡大により、その管理の必要性の増大に対応するため、身分に関わらず一斉教育するために生まれたものだから、その尻尾である現在の高校でいい成績を収めたものを管理職(ホワイトカラー)として採用したいというのは当然だといえば当然。高校でいい成績を収めた人間がいい大学に入ってくるとは限らないけど。
(高校を太字にしたのは、大学で学んだことよりも、高校での偏差値が問題だから)
このノリ(http://www.geocities.jp/job_ranking/sougou/bunkei.htm)が冗談じゃないわけだ。


と、ここまで書いて
『情報過多が作り出す「Level1飛空艇」症候群』
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0604/17/news012.html
が話題になってるのを発見。

近年の新社会人は、まだ何も経験しないうちから、情報としてはすべてを把握しているつもりになっている傾向がある。

例えばFINAL FANTASYシリーズで、Level 1のキャラにLevel 100のキャラが付いてきても、そりゃ確かに経験値は貰えるかもしれないが、戦闘が一瞬で終わってしまって何が起こったのか理解できまい。きっとあのぐらいのレベルになればわかるのかも、ぐらいのことがボンヤリわかる程度である。

だが今、新しく社会人になるという世代の人は、どうもLevel1の段階からすでに飛空艇に乗っているような気がする。つまりどこにでも行けて、どこにでも降りられる自由を情報として手にしていながら、どこにも降りられない。降りれば自分のレベルでは一撃でヤられることを、知識として知っているからである。

 一度も地上に降りたことはないが、世界を全部知っているというのは、ゲームをクリアしたかのような感覚になりがちだ。だがゲームは自己体感的であるもので、読み物とは違う。

 そして現実社会では働かせなければしょうがないので、無理矢理地上に降ろして戦わせてみると、武器の装備から防具の種類、バトルシステムといった具体的なことは、何一つ知らないことに驚く。

自分みたいな木っ端でもちょっと働けば自分がレベル1であることはすぐわかるし、彼等もすぐわかるだろうから問題ないといえばないと思うのだけど、レベル0が「ベンチャー系はインターンシップに向いてません」「何故なら企業側が慣れてなくてプログラムがしっかりしてないので、ただ無賃労働させられるだけで終わります」なんていってるのはさすがにキモい。そんなもんなくても自分で学習プログラムを考えて、提案できる能力や勇気や面の皮の厚さみたいなのをもってる人間をベンチャーは欲しいんだろ?だって「ベンチャー」なんだから。

学校的価値体系っていうのは飛空挺の窓から得られる知識しか重視しない。そういう中で育ってしまったら、そういう体系で世界を把握してしまっても仕様がない。
「学校化(http://learning.xrea.jp/%B3%D8%B9%BB%B2%BD.html)」って、I.イリイチの概念だけど、それをどうにか批判できるのが大学で身に付ける学問知(それは「Level1飛空艇」記事で小寺氏が指摘している「調べもの」に集約される)なのにそれが身に付いてない。身に付いてたらそんなキモいこといえないハズだ。「すべての科学的定理は仮説でしかない」んだから。

*1:多分、フツーの人がオタクに抱いていた嫌悪感ってこれなんだろうな。これってオタクが割と学校の勉強ができるっていうのと多分関係している。萌え以前のオールドオタクの人が最近のオタクが知識が無くなったって嘆くのと、「アキバ系」がポピュラーに「キモかわいく」なったのも関係しているかもしれない

大学以上に学校的な就職活動

プロフィール欄、更新しました。自分は、
某芸大卒→某古本チェーン(正社員)→ゲーセン店員、塾講師(バイト)→
で、今年から某大学大学院(専攻は一応教育学)にいます。